2024年2月26日月曜日

沖縄県出身で日本代表になったサッカー選手っているの?

■2022/02/15 沖縄県出身で日本代表になったサッカー選手っているの?
■2016/1/7 左足のキックに定評がある上里一将 宮古島出身者初のJリーガー
■2017/05/10 名倉巧、東京で大学生活しながら、沖縄・FC琉球でプロサッカー選手



■2022/02/15 沖縄県出身で日本代表になったサッカー選手っているの?

 沖縄県出身のサッカー選手をWikipediaで見てみました。個人的には、あまり好きな選手いないかな?と思ったら、我那覇和樹がいました。直前に川崎フロンターレって全然好きな選手いないよな…とも思って、川崎フロンターレの話がボツになっていたのですけど、これも我那覇和樹が該当。弱かった頃の中心選手ですね。
 あと、沖縄県出身で日本代表経験者いるんだろうか?と思ったら、これも我那覇和樹が該当。しかも、6試合出て3ゴール決めています。全く記憶になかったですね。

 また、下の方で書いている上里一将もいいな!と思った選手。他、パッと見た感じ、有名そうなところとしては、赤嶺真吾、喜名哲裕あたりですかね…。この中では、J1出場試合数から言うと、赤嶺真吾がナンバーワンな感じなのですが、日本代表出場があることを重視すると、我那覇和樹ということになりそうです。

<沖縄県出身ベスト11>(暫定)
GK    石川研:石川市 J1     3 J2     62
 聞いたことある!と思ってポジション見たらGKであれ?と。選手名鑑で見ただけでたぶん試合は見たことないのではないかと思います。
DH、LSB、OH    上里一将:宮古島市 J1     12 J2     455
DH    喜名哲裕:那覇市 J1     112     J2     81
 石川研に次いで沖縄から2人目、フィールドプレーヤーとしては沖縄初のJリーガーだそうです。記憶に残っていませんが、プレーも見たことあるはずですね。中盤の底だった覚えあり、Wikipediaでもそう書いている部分がありますが、攻撃も得意だったようなので、複数ポジションこなしていたかもしれません。
FW    我那覇和樹:那覇市 代表6 J1     128 J2     242
FW    赤嶺真吾:那覇市 代表候補 J1     249 J2     179

    安里光司:うるま市
    新崎直哉:那覇市
    井口綾人:沖縄市
    石川翔二
    糸数昌太:那覇市
    上里琢文
    上門知樹:うるま市
    上原慎也:西原町
    内間安路:沖縄市
    エルサムニー・アリー
    エルサムニー・オサマ
    兼村憲周:嘉手納町
    儀保幸英:読谷村
    金城クリストファー達樹
    金城ジャスティン俊樹:沖縄市
    國仲厚助:浦添市
    久場光:那覇市
    國場虎次朗:北谷町
    下地奨
    城間由太:浦添市
    新里裕之:宜野湾市
    砂川太志:浦添市
    高安孝幸
    田口泰士:那覇市
    玉城幸弥:西原町
    知念慶:島尻郡南風原町
    知念哲矢:那覇市
    當間建文:那覇市
    徳元悠平:糸満市
    仲里航:宜野湾市
    野澤大志ブランドン:宜野湾市
    比嘉健志郎:読谷村
    比嘉隼人:うるま市
    比嘉雄作:浦添市
    比嘉祐介:名護市
    福井凛音:宜野湾市
    古山蓮
    真栄城兼哉:沖縄市
    宮城晃太
    宮城雅史
    山内健史
    山内達朗:読谷村
    山川デション諒
    与那城智希:那覇市



■2016/1/7 左足のキックに定評がある上里一将 宮古島出身者初のJリーガー

  コンサドーレに長くいましたし、そのときしか見たことがありません。最初に見たときは左サイドバックだったかも。ただ、左足のキックがすごく良くて、ちょっと雰囲気が違う感じ。それで本職は中盤だと聞いて納得した…という感じだった覚えがあります。
 左サイドバックでも悪くなかったものの、見ていたときも守備的な中盤に入った方が生きていた感じでした。私見ていた当時の札幌は、左サイドバックに本職がおらず、コンバートしながらいろいろ試行錯誤しているっぽかったです。

 今、Wikipedia見ると、そもそもは攻撃的な中盤だったみたいですね。

-----引用 ここから-----
上里 一将(うえさと かずまさ、1986年3月13日 - )は、沖縄県宮古島市(旧平良市)出身[2] のサッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー(MF)。

 来歴

小学1年生(6歳[1])の時に友人の誘いでサッカーを始め[3]、3年生から本格的に打ち込むようになる[4]。当時は身長に恵まれず、中学校に入学した時点で138cmしかなかった事もあって[4] 所属チームの練習後に1人居残り左足の技術を徹底的に磨き続けた[4]。中学校卒業後は地元の高校で、上里の中学3年生次に全国高等学校サッカー選手権大会への初出場を果たした沖縄県立宮古高等学校に進学[注 1]。高校の3年間で全国大会の出場は適わず、個人としても代表や選抜に招集された経験もなかった為に全国的には無名の存在だったが、当時から攻撃的な中盤の選手としてボールコントロールには定評があり[5]、その才能を評価したJ2のコンサドーレ札幌より誘いを受け、2003年11月22日に同クラブより上里の獲得が発表された[2]。同校出身者、並びに宮古島出身者として初のJリーガーとなった[5][6]。上里は日本最南端でプレーする自分に届いた日本最北端のプロクラブからのオファーに「いったいどこで僕のプレーを見ていたのだろう?」と思ったという[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8C%E4%B8%80%E5%B0%86
-----引用 ここまで-----

 私が見た試合の一つは、以下のヴェルディ戦でスコアレスドロー。下はDF4枚になっていますが、テレビでは3-5-2のボランチ2枚という紹介でした。

-----引用 ここから-----
2010Jリーグ ディビジョン2 第11節 « 東京ヴェルディ/TOKYO VERDY
http://www.verdy.co.jp/information/result/season/season2010/100505.html

GK    21    高原寿康
DF    6    西嶋弘之
DF    3    藤山竜仁
DF    4    石川直樹
DF    23    岩沼俊介
MF    7    藤田征也
MF    10    宮澤裕樹
MF    18    芳賀博信
MF    20    上里一将
FW    11    近藤祐介
FW    19    キリノ
-----引用 ここまで-----

 当時は攻撃では若い藤田征也が元気で、動くならここかなというところ。全体的な中心なら、上里なのかなというところ。Wikipedia見ると、キャプテンでもあったみたいですね。
 この日は中盤からブレるシュートを見せていました。これでCKを取ります。続けて右からのCK、トップ下の宮澤裕樹が下がりながらのヘディングで合わせますが、惜しくもバー。
 前半は良いカットも見られました。
 後半も右へ展開して、藤田のチャンスを演出。メモに無いですが、記憶ではロングキックに特に魅力を感じた覚えがあります。
 「CKからシュートで戻したボール」というメモの理解ができないのですが、これをダイレクトでシュート性のクロス。こういうクロス好きなのでメモしていたんだと思います。良い選手です。

 この2009年シーズンのWikipediaを載せて、終わりに。

-----引用 ここから-----
2009年は新監督に就任した石崎信弘に指名されキャプテンに就任[24]。クラブ史上最年少での主将抜擢だった[25]。リーグ戦が開幕するとレギュラーとして主にボランチや左サイドバックで起用され[19][26]、チーム最多の48試合に出場(うち先発出場は47試合)し、出場時間もチームトップの西嶋弘之に次ぐ4,013分に到達するなど上里にとって飛躍の年となった。リーグ戦が始まると序盤こそ勝てない時期が続き、3月25日のJ2第4節湘南戦では試合開始早々にチームメイトのキリノと接触し裂傷を負い負傷退場してしまう不運にも見舞われたが[27][28]、続く3月29日J2第5節岡山戦で豪快なミドルシュートでシーズン初ゴールを挙げると[29]、4月からはチームも13試合連続で不敗を続けるなど好調を維持し攻守の要としてチームを牽引した[30]。また、得点能力の向上も見せており、上述の岡山戦でのゴールをはじめ、6月27日J2第24節仙台戦では左サイドの深い位置からゴールを決め[31][32]、8月5日J2第32節の福岡戦では自陣側センターサークル手前の推定65mの位置からロングループシュートを決めるなど[33][34][注 3]、持前の視野の広さとキックの精度を活かしたゴールも多く挙げ、9月20日のJ2第40節福岡戦ではプロ入り後初となる直接フリーキックを決めており[35]、最終的に自身最多となる6得点でシーズンを終えた。
-----引用 ここまで-----



■2017/05/10 名倉巧、東京で大学生活しながら、沖縄・FC琉球でプロサッカー選手

 國學院久我山高出身のMF名倉巧選手は今期、週の前半は東京で大学生、後半は沖縄でプロサッカー選手という前代未聞の“二重生活”に挑むことになりました。

 なぜこうなったのか?という話。名倉によると、「プロの誘いがあれば高卒の段階で行きたいという気持ちがあったんですけど、そういう話がなかったので大学に進学して、その後プロを目指そうと思っていました」とのこと。
 名倉の専修大学合格は、一般入試よりも早く昨年10月ごろに決まっていました。
 ところが、その後、プロ入団の話が出てきて、大混乱します。今年1月20日にFC琉球への加入内定が発表されながら、わずか5日後に内定の取り下げ、というこれまた前代未聞の事態になりました。およそ2ヶ月後の3月30日に改めて名倉との契約締結しています。

「(進学が)決まってから(琉球入団の)話をもらったので、こういう形(加入内定取り下げ→正式契約)になりました。それが指定校推薦だったため問題になってしまって、大学には通わなくてはいけなくて、そうなったら通いながらやるしかないなと」

 指定校推薦とは大学や短大、専門学校などが実施している推薦入試制度の一つ。この制度は指定校となる高等学校と推薦枠を設ける大学側の信頼関係に基づいて成り立っています。そのため、合格すると入学を断ることができなくなってしまうのです。
 仮に合格を辞退してしまうと、どうなるか?と言うと、入学予定だった大学から、その生徒が在籍していた高校に対する指定校推薦枠がなくなってしまうことが危惧されるわけです。
 これは後輩や学校という大きな枠での責任を個人に負わせるもので、良くないと思いますけどね。ブラックなものを感じます。

 とりあえず、この「大学も通いながらプロ」への決断に迷いがあったことが、今年1月末の加入内定と、その取り消しの騒動であったようです。
 しかし、よりによって沖縄のクラブですからね。一番時間とお金がかかる地域かもしれません。
 本人はこうした厳しい形でのプロ生活のパイオニアになりたいという思いがあるようで、いい話風に書かれていたのですが、負担が大きすぎてブラックな話に見えました。

(沖縄でプロ、東京で大学生。J3琉球MF名倉巧、18歳が挑む前代未聞の二重生活 フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年05月09日(取材・文:舩木渉)より)