2023年8月10日木曜日

読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也

■2021/10/09 読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也
■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため
■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった



■2021/10/09 読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也

 菊原志郎のWikipediaを見ていたら、<読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の下部組織で育ち、戸塚哲也から繋がり、菊原以後山口貴之、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜である>と書かれていました。ただ、これ、大成しなかった早熟の天才の系譜、失敗の系譜のような感じですね。
 私には、「早熟の天才日本人選手は大成せずに失敗することが多い」というイメージがあったのですが、菊原志郎・財前宣之・山口貴之というのがまさにその代表例。そういや、読売ばっかりじゃん!とこれ見て気づきました。Jリーグ開幕後の失敗例として思い浮かぶ森本貴幸も、なぜか同じヴェルディという不思議な共通点があります。森本貴幸の場合は早くに海外に行ったので、日本やヴェルディの責任は薄いですけど…。

 彼がきっかけだったので、まず、2番目の菊原志郎から始めましょうか。Wikipediaでは、以下のように書いていました。出た試合が少なすぎて、私もプレーの記憶がありません。Jリーグは15試合で、日本代表は5試合でした。

<1986年2月1日の日本サッカーリーグ第15節フジタ工業戦において16歳7ヶ月の若さでデビューを果たした。これは当時の最年少出場記録であった。その後レギュラーの座を掴み、ラモス瑠偉らと共に中盤を支え読売クラブの黄金時代を築き上げた。またこの活躍から「日本サッカーの未来を背負う男」とも呼ばれ[2]、1990年には日本代表に選出された。
 読売時代は天才ドリブラー、テクニシャン等数々の異名をとったが、Jリーグ開幕前後は、層の厚いチームにあったため出場機会に恵まれず、日本代表にも招集されることはなかった>


■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため

 私が見始めたJリーグでは既に30歳を超えたベテランで、なおかつ既にハゲてきていた(と思ったのですが写真見るとはげておらず記憶違いかも)ので全く「少年」というイメージはないのですが、最初の戸塚哲也が唯一成功例な感じ。Wikipediaによると、代表試合数は18試合と少ないものの、読売を優先して辞退していたという経緯があり、本来ならもっとキャップ数が多かったはず。「読売でレギュラーを取るのは日本代表になるより難しい」を体現していた人でした。

<読売クラブの下部組織で育ち、天才少年と呼ばれた>
<1979年4月25日の東洋工業戦において、18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾った[2]。これは当時の最年少出場記録でもあった。(中略)
1983年に監督に就任したルディ・グーテンドルフによってMFからFWへコンバート[3]。ポジションの変更は当時読売クラブでエースFWであったラモスとの単純な入れ替えであったと評す向きもあるが、翌1984年に14得点を上げリーグ得点王に輝いている。
日本リーグ末期からJリーグ黎明期の読売クラブ/ヴェルディ川崎の黄金期を支えるエースストライカーであった。キープ力に定評があり[3]、当時日本屈指のキープ力と称され、その懐深いドリブルは相手DFから球を奪われることは殆どなかった。また、JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)などでも活躍した>
<1980年、19歳の時に日本代表に初選出。(中略)
その後も代表へ度々選出され、背番号10番を背負う事もあったが、1983年に個人的な理由から数年間代表入りを辞退していた[3]。当時戸塚はラモス瑠偉、ジャイロ・マトス、ジョージ与那城らブラジル人選手とパス交換を交わす読売クラブでのプレイに魅力を感じており、代表合宿に参加するとクラブに戻った際にブラジル人トリオとの息が合わない事が多かった。そのためアマチュアである代表チームよりも、お金にもなるクラブに専念したかったのである。しかし1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した>    


■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった

 私が一番楽しみにしていたのは、山口貴之。彼の場合はJリーグでもかなり出ていたものの、不思議とあんまり記憶に残っていません。J1は153試合。京都のイメージが強かったものの、Wikipediaによると、いろんなチームを転々としています。各年代の代表には選ばれていますが、フル代表に呼ばれるほどの活躍はできませんでした。

<1992年、ヴェルディ川崎トップチームに昇格する。
 戸塚哲也、菊原志郎から繋がり、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。司令塔タイプとしてユース時代から注目され、「ラモス2世」の呼び声もあった。その後数多くのクラブに移籍、また日本代表選手として、U-16、U-19、U-23アトランタオリンピック代表などにも選出された>

 最後の財前宣之が一番覚えている選手で、仙台の中心選手として長く試合に出ていました。ただ、Wikipediaによると、J1は37試合のみで、J2が222試合というのは記憶と違います。だいぶ見た気がしたんですけど、J2で見たのかな…?。
 ジュニアユースやユース時代からよく名前が出ていて楽しみにしていた選手です。4人の中では一番好きですね。ただ、こちらもユース時代の評価からはかなり物足りない結果に。
 仙台では「天才だから特別扱い」ということはなく、運動量がむしろ多く、よく動いていました。ただ、代表レベルには物足りないプレーの質で、代表にも呼ばれず。ユース年代が最後の代表となりました。度重なる怪我に泣かされた面もありますね。

<中田英寿も認めた才能の持ち主[2](運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
 中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出された。>