2023年10月25日水曜日

日本代表最初のストライカー手島志郎は台湾生まれだった…

■2022/02/25 日本代表最初のストライカー手島志郎は台湾生まれだった…



■2022/02/25 日本代表最初のストライカー手島志郎は台湾生まれだった…

 広島県出身のサッカー選手を見ていると、やたらと昔の日本代表が多くて驚き。かつてはサッカー王国だったんですかね?
 意外だったので、最初はここらへんをタイトルにする予定でしたが、以下の手島志郎さんが気になりました。

<手島志郎 [1930](「全日本の初代ストライカー」、元東京帝国大学ア式蹴球部):台湾生まれ、広島育ち>

 本人単独のWikipediaによると、台湾生まれではありますが、台湾系という意味ではないみたいですね。父が台湾総督府の高官在任時に台北で生まれ、まもなく帰国し広島で育ったとのこと。同じ広島県出身で、日本代表選手、日本代表監督の他、日本サッカー協会会長を務めた超大物・長沼健さんは親戚だそうです。

 「全日本の初代ストライカー」とされているのは、そもそも選抜するタイプの「日本代表」自体が以前はなかったため。どうも選抜ではなく1チームをまるごと…という日本代表チームが普通だったみたいです。今でもカーリングのオリンピック代表なんかはそんな感じですよね。以下のような説明でした。

<1930年、それまでの単独チームではなく、日本蹴球協会が大掛かりな選考を経て編成した初めての選抜チーム、全日本選抜(日本代表)に選出される。このチームでもセンターフォワードとして第9回極東選手権競技大会(東京)の国際Aマッチ2試合に出場し、中華民国戦での先制ゴールを含む2得点と、2試合で計3得点の大活躍を見せ、日本の国際大会における初のタイトル獲得の立役者となった。代表デビュー戦から2試合連続得点は手島が初>

 当時はもちろんプロサッカー選手なんかおらず、コンスタントに試合が組まれていなかったのか、サッカーばかりやっている人は珍しかったのか、この活躍にも関わらず、手島志郎さんが日本代表に選ばれたのはこの年だけだったそうです。
 手島志郎さんが選ばれたときも社会人ではなく、東京帝国大在学時。今では考えられませんが、実は昔東大ってサッカーが強くて、日本代表は東大ベースに他の大学の選手を少し入れる程度だったと聞いた覚えがあります。
 1932年東大卒業後、農林省入りし中国へ。その後、太平洋戦争で帰国し1940年田辺製薬入社しています。ただ、サッカーへの繋がりは、田辺製薬でむしろ復活したようです。

<1947年の東西対抗試合(天覧試合)では全関西代表の監督を務めた。その後、田辺製薬サッカー部の強化に携わり全日本実業団選手権大会6連覇(1950~55年)に貢献。また関西サッカー協会理事を務めた。この他、日本人初のFIFA常任理事を務めた市田左右一をサッカー界に引き入れたのは、旧制広島高校の先輩・手島という。社業ではサッカー仲間でもある田邊五兵衛社長(第14代田邊五兵衛)を助けて常務などを歴任し同社の発展に尽くした>

 日本代表の話から読み始めたのですが、東京帝国大に入る前の旧制広島高校(現広島大学総合科学部)時代にも活躍。1926年、東京帝大主催による官立旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)でセンターフォワード(CF)として準優勝。広島高校が創設間もなかったため、1、2年生チームでの健闘でした。
 また、<1928年の第5回大会では、幅広い動きで当代随一と評を得たHB・野沢正雄主将らと、身長152cmのCF・手島もコマネズミのように動きまわり得点を重ねチームを優勝に導いた>という説明にびっくり。当時のサッカースタイルがわかりませんが、昔のサッカーなので3トップの真ん中のイメージで読んでいたので、152cmというのはびっくりです。
 関東大学リーグ四連覇~六連覇(1931年)に貢献した東大時代も、小柄ながら体の大きなバック(ディフェンダー)とバック間を上半身を強くひねり弾丸のようにすり抜けるプレーを得意とした…と書かれていました。