2023年10月31日火曜日

フリューゲルスの天皇杯優勝エンドを作った桜井孝司の一言

■2017/08/04 フリューゲルスの天皇杯優勝エンドを作った桜井孝司の一言
■2017/08/04 消滅決定で浮足立つフリューゲルスをピッチ外で落ち着かせたサンパイオ
■2017/08/04 感動的なフリューゲルスの優勝と報われなかった立役者桜井孝司


■2017/08/04 フリューゲルスの天皇杯優勝エンドを作った桜井孝司の一言

 Jリーグの初期に、横浜フリューゲルスが親会社の都合で 突然消滅して、同じ横浜のマリノスと合併するというめちゃくちゃな出来事がありました。
 フリューゲルスの若手FWだった桜井孝司さんに、当時を振り返ってもらうインタビュー記事があり、生々しかったですし、懐かしくておもしろかったです。

 この桜井さんは、天皇杯に優勝してチーム消滅という、できすぎなくらいにドラマチックなフリューゲルスの奇跡を演出する大事な一言を言った方とのこと。
 ただ、全く名前に覚えがなくて、誰?と思いました。実際、ほとんど試合には出ていなかった(J1では1試合)そうです。とはいえ、この試合に出ていなかったということが、この事件にすごく関係しています。

 桜井さんによると、クラブ存続の署名活動はみんなで手分けしてやっていたといいます。しかし、そのときにファンをはじめ、いろんな人たちから声をかけられたものの、言葉は全然覚えていないといいます。
  「自分の来季はどうなるんだろう」という不安もあり、当時はファンのことまで考えられるような選手は、あの時はそんなに多くはなかったのでは?と想像していました。

 この来季への不安は、特に桜井さんがレギュラークラスではなかったということも関係しているでしょう。
  桜井さんがフリューゲルスがなくなることを覚悟したときは、周りで「移籍先が決まった」みたいな話がちらほら聞こえてきたときでした。
 しかし、桜井さんには「そういう話は一切なかった」と言います。

 そして、そういう移籍先の決まらない状態を危惧してか、 天皇杯(3回戦)が始まる前のミーティングで「サク(桜井)を出してやろうよ」という話になったそうです。(桜井さんをかわいがっていたという三浦淳宏さんではないか?とされていたものの、発言者は正確には覚えておらず)
  要するに天皇杯を、まだ行き先が決まっていない選手のアピールの場にしよう、という話です。   当時監督だったゲルト・エンゲルスさんも、ゲルトも「選手たちの意思を尊重する」というスタンスで、可能性はありました。

 ところが、細かいニュアンスは覚えていないものの、桜井さんは、「強いフリューゲルスを見せたい」という趣旨の発言をしました。
 これがフリューゲルスのドラマチックな有終の美に繋がったわけです。

「 もし、あの時の言葉がなかったら……たぶんゲルトは僕をはじめ、移籍先が決まっていない若手中心でメンバーを組んでいたでしょうね。そうなっていたら、(天皇杯は)間違いなく違った結果になっていたと思います」

(横浜F、“伝説”の天皇杯優勝の内幕。若手FWが口にした一言から生まれたドラマ【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】 | フットボールチャンネル | ワンランク上のサッカーサイト2017年02月15日(Wed)10時29分配信   宇都宮徹壱 より)



■2017/08/04 消滅決定で浮足立つフリューゲルスを落ち着かせたサンパイオ

 上記に至る段階の前も、生々しい話でした。新聞報道は10月29日で、前の夜に三浦淳宏さんから電話で「おい、フリューゲルスがなくなるみたいだぞ」って呼び出されたといいます。
 「当時はネットとかなかったんで、たぶんアツさんは新聞記者の人から情報を掴んでいたんだと思います」としていました。桜井さんだけでなく、 何人か集まり、「薩川(了洋)さん、あとナラ(楢崎正剛)さんもいたかな」とのことです。

 監督含めて現場も何も知らない状態。翌日の練習前に会議室に集まり、社長からは「今季限りで横浜フリューゲルスはなくなります」──以上って感じで、まともな説明もなし。
 「ちゃんと説明しろよ!」って、熱くなっている選手もいたものの、ここで冷静な選手が一人いました。ブラジル代表のサンパイオ選手です。通訳を挟んで…ですけど、その場を落ち着かせてから、冷静に話し合う空気を作ってくれたといいます。サンパイオはピッチ外でもさすがだなと感心した話です。

 とはいえ、 その日は練習にはならなかったといいます。「みんな、心ここにあらずという感じ」。2日後のJリーグでは、 「試合をボイコットしよう」という意見もあったものの、エンゲルス監督はは「今はとりあえず、サッカーをやることを考えよう」と。
 そして、ここでもまたサンパイオ選手が「俺たちはサッカー選手なんだから、まずは試合をやるべきだ」と力説してくれたといいます。本当すごい選手でしたね。

「今にして思うと、サンパイオの存在感はデカかったですね。選手としても、もちろんすごかったけれど、それ以上にプロとして、人間として素晴らしかったと思います」
(横浜F、“最後”の天皇杯制覇の舞台裏。「伝説」につながる一言を発した若手FW【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】 | フットボールチャンネル2017年02月14日(Tue)10時39分配信  text by 宇都宮徹壱より)


■2017/08/04 感動的なフリューゲルスの優勝と報われなかった立役者桜井孝司

 海外でよくありますが、クラブが豪華な選手を集めたり、代表に世界的な選手が揃っていたりしても、活躍できないということがあります。チームとしてのまとまりの問題、精神的な問題というのが、関係してくるためでしょう。

 桜井さんによれば、 「最後(決勝)まで行くぞ!」という雰囲気になったのは準々決勝でジュビロに勝ってからとのこと。スタメンもベンチも、ベンチ入りできない選手も、一致団結していました。
 さらに、 準決勝でアントラーズに勝ってからは、みんなでご飯を食べに行って「こうなったら優勝するしかねえな」みたいな話をしたそうです。「あんなにチームに一体感があったのは、僕が知る限り初めてでしたね」とのことでした。
 そして、フリューゲルスは感動的な優勝を迎えて有終の美を飾ったのですが、そんな中で出場機会を得る機会を蹴った桜井孝司さんだけ、最後まで移籍先が決まらなかったといいます。
 
「天皇杯で優勝するまでは、一切自分のことは考えていなかったし。性格ですかね(苦笑)。あと、若くて生意気だったので、フロントの人たちから良く思われていなかったというのもあったかも」

 その後、 トレーニングを兼ねて、三浦淳宏さんや永井さん(おそらく永井秀樹)と1月にハワイに行っていたところ、ホテルから自宅の留守電を聞いたらコンサドーレの強化部長から「すぐ来てくれ」とメッセージが入っていて、慌てて日本に戻ったといいます。移籍先が決まらずに終わった…というひどいオチではなかったようです。
 というか、コンサドーレ札幌にいたのか! J1以外では一番知っている地元のチームなのに、覚えていませんでしたわ。 ただ、出場は8試合のみとのことでしたので、仕方ないことかもしれません。