■2019/02/05 アマチュアからプロサッカー選手へ ブラモール、ヴァーディー、クローゼ、橋口拓哉
■2017/01/05:アマチュアからプロに成り上がり コーエン・ブラモール
■2017/01/05:成り上がりの代表格、ドイツ代表だったクローゼ
■2017/01/08:最近の成功例はジェイミー・ヴァーディー、やはり7部から
■2017/01/27:大学サッカーのトップはわずか4試合で柏入りした橋口拓哉
■2019/02/05 アマチュアからプロサッカー選手へ ブラモール、ヴァーディー、クローゼ、橋口拓哉
過去に書いていたアマチュアからスカウトされてプロサッカー選手になった…などといったシンデレラストーリーの話をまとめています。
■2017/01/05:アマチュアからプロに成り上がり コーエン・ブラモール
若い頃から将来を嘱望されていた選手というのも好きですが、こういう成り上がりの話もわくわくします。
-----引用 ここから-----
アーセナル、7部から補強! アマチュアリーグで活躍する若手選手と2年半契約へ
フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年01月04
http://pex.jp/point_news/dfab3baf33e06525389f4042b9f3dc17/
アーセナルがイングランド7部相当(ノーザン・プレミアリーグ)のヘドネスフォード・タウンに所属する20歳のDFコーエン・ブラモール獲得に近づいているようだ。3日に英紙『スカイスポーツ』など複数のメディアが報じている。(中略)
ブラモールは左サイドバックや左ウィングのポジションでプレーしている選手で巧みなドリブル技術を持っている。ただ、現所属クラブはアマチュアリーグのため、プロリーグで通用するかは不明だ。最初のうちはレンタルの形で別のクラブに移籍するかもしれない。
-----引用 ここまで-----
■2017/01/05:成り上がりの代表格、ドイツ代表だったクローゼ
正直言うと好きな選手ではないものの、こうしたアマチュアリーグから成り上がった代表格としてはクローゼがいます。素晴らしいシンデレラストーリーです。
-----引用 ここから-----
国籍 ドイツの旗 ドイツ
ポーランドの旗 ポーランド
生年月日 1978年6月9日(38歳)
出身地 ポーランドの旗 ポーランド
POL województwo opolskie flag.svg オポーレ県オポーレ
身長 182cm[1]
体重 83kg[1]
ミロスラフ・クローゼ(Miroslav Klose, 1978年6月9日 - )は、ポーランド・オポーレ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。ポーランド語の表記法ではミロスワフ・クローゼ (Mirosław Kloze) 。
ドイツ代表での出場は歴代2位、得点数は歴代最多。FIFAワールドカップでの通算得点数16は歴代最多の記録である。(中略)
経歴
9歳でドイツに移住し、7部リーグに所属する小さなクラブ、ブラウバッハ=ディーデルコップフやFCホンブルクでアマチュア時代を過ごす。1999年にはブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンのサテライトチームに移籍し、2000年にプロデビュー。翌シーズンにはUEFAカップ準決勝まで進出し、ポーランドとドイツ両代表から招集を受けるが、クローゼはドイツ代表を選択。2001年3月24日のアルバニア戦で代表デビューを果たした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC
-----引用 ここまで-----
すごいですね。素直に讃えたいと思います。
■2017/01/08:最近の成功例はジェイミー・ヴァーディー、やはり7部から
別記事。どうも会社をクビになったところだったようです。ナイスタイミングでした。
-----引用 ここから-----
7部からのアーセナル入りに驚く20歳DF。「自動車工場をクビになったところだった」
フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年01月07日
http://pex.jp/point_news/4ab987303f90cb02d181986d3f61ec5c
これまでは仕事をしながらアマチュア選手としてプレーしていた。「クルー(地名)のベントレー自動車で働いていた。生産ラインにいて、車にガスやブレーキオイル、ウォッシャー液を詰めていたんだ」と自身の状況を振り返っている。
「月曜日から金曜日まで、午前6時半から午後5時15分までの仕事だった。火曜日と木曜日にはクルーからバーミンガムへ行って練習をして、土曜日に試合をするのを楽しんでいたよ」
だが、昨年末の12月20日にはベントレーから解雇を告げられ、途方に暮れていたという。「クレイジーなことだった。どうすればいいか分からなくなった。ヘドネスフォードから受け取るパートタイムの給料ではなくフルタイムの給料が必要だったから、新しい仕事を見つけようと考え始めていた」
だが、その翌日には代理人から電話が入り、アーセナルでのトライアル参加を告げられたとのことだ。
-----引用 ここまで-----
最近の選手なので知りませんでしたが、ヴァーディーも7部出身とのこと。同じプレミアリーグでもありますし、今例を上げるなら彼がパーフェクトでしたね。
-----引用 ここから-----
ブラモールの夢物語は、同じく7部リーグからスターダムに上り詰めたレスター・シティのイングランド代表FWジェイミー・ヴァーディーを彷彿とさせるものだとも捉えられている。あとはピッチ上で実際に力を見せられるかどうかだ。
-----引用 ここまで-----
■2017/01/27:大学サッカーのトップはわずか4試合で柏入りした橋口拓哉
ちょっと違う話なのですけど、セットでここに入れました。柏に今季加入したセンターバックの橋口拓哉(22)=流通経大4年=の話。
流通経済大学の1軍は、関東大学1部リーグだったようですが、ピッチに立ったのは4年間で4試合だけだと言います。かなり少ないです。
注目選手だったのに怪我に泣かされたというわけでもありません。下記を読んでわかるように無名の選手でした。
-----引用 ここから-----
[大学サッカー]柏大型CB橋口のシンデレラ物語 関東1部出場わずか4試合:首都スポ:中日スポーツ(CHUNICHI Web)(取材・構成、関孝伸)
「1年生のときは全然通用しなかったというのが正直な感想ですけど、それは予想していたことでした。でも、2年生のときはつらさがありました。あとから入ってきた同じポジションの1年生がすぐに試合に出るようになったからです。1年生がプレーするのを観客席から見て、悔しく思っていました」
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/shutospo/news/CK2017012702000143.html?ref=rank
-----引用 ここまで-----
4年生になってやっとJFLで試合に出たものの、実はこれは2軍相当。4年生で急に変わったわけでもありません。まだ、苦しんでいました。
-----引用 ここから-----
-3年生のときも出番はなく、4年生になっても、シーズンの前半はトップチームに加われませんでした。JFL(日本フットボールリーグ)に参戦している流通経大ドラゴンズ龍ケ崎での登録でした。ドラゴンズは大学のセカンドチームです
-----引用 ここまで-----
転機はさらに後、4年生の9月という非常に遅い時期でした。やっとトップに転向したと思ったら、いきなり柏レイソルに目をつけられたのです。すごい成り上がり方。
-----引用 ここから-----
「トップチームに高さがないということで、中野監督が190センチの僕をトップの方に引き上げてくれました。去年の9月のことです。そのあと、10月にトップのサブ組がレイソルと練習試合をやって、そこで90分間プレーしました。チャンスだと思って臨みました。高さでは負けなかったと思いますし、守備だけではなくて、左足でのつなぎやロングフィードの部分もある程度できた感じでした。それで、試合後すぐにレイソルから練習参加を要請されました」
-高さだけが特長ではないところを柏にアピールすることができました
「ドラゴンズのサッカーがつなぐスタイルだったんです。もともとの僕はつなぐタイプではなかったんですけど、ドラゴンズで試合に出るにはつなぎもできるようにならなきゃダメだと思って、その部分をすごく意識して練習するようになっていました。つなぐためにはポジショニングも大事で、そこについてもこだわって、それまでよりも頭で考えてプレーするようになりました」
-話はそこからトントン拍子に進みました。柏の練習でも、上々の出来だったわけですね?
「その直前に関東大学リーグで初めて先発させてもらって、早稲田に3-0で勝ったんです。完封できたということで、自信をもってレイソルの練習に行けました。調子が良かったからかもしれないですけど、レイソルの練習でもうまくプレーできて、手応えを感じました。その週末に正式にオファーをいただきました。苦しくてもコツコツとやり続けてきたことが報われました。うれしかったです。でも、大事なのはプロになってから結果を残すことなので、割と冷静にオファーを受け止めました」
-----引用 ここまで-----
下平監督は左右2枚のセンターバックのうち、左には左利きの選手を使いたいという意向で、該当するのは2人だけ。2016年U-19日本代表の中山雄太の控えで使いたいとのこと。いきなりプロデビューまでありそうです。
なお、出番を得た後に、すぐに右膝内側付近を故障してしまったため、4試合とのこと。順調であれば、もう少し試合に出られたのでしょう。とはいえ、十分に驚き。珍しい話であり、まさにシンデレラストーリーでした。