2024年6月22日土曜日

慶応大はサッカー部じゃなくてソッカー部だった!

■2016/4/24 慶応大はサッカー部じゃなくてソッカー部だった!



■2016/4/24 慶応大はサッカー部じゃなくてソッカー部だった!

 2005年の高校選手権のメモが出てきました。ベスト8の盛岡商業と国見との試合。福士徳文は盛岡商業のFW。
 自由にできなかったが、抜けている存在。落ち着いて周りを見れているのも、自信があるせいだろうというメモ。自由にできなかったというのは、たぶん相手チームが彼にマンマークをつけていたんでしょう。国見はよくやるイメージです。
 また、体の強さも感じました。もしかしたらキックも良いもの持っているかもしれないとも思ったものの、良いプレーさせてもらえる時間は少なかったです。ただ、スピードは感じなかったので、プロになるときついかなぁとは思いました。

 で、Wikipedia見てびっくり。まっすぐプロには行かず、一度引退していました。

-----引用 ここから-----
福士徳文 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%A3%AB%E5%BE%B3%E6%96%87

生年月日     1986年6月17日(29歳)
出身地     岩手県盛岡市
身長     177cm
体重     69kg

盛岡商業高校入学後からレギュラーに定着、第81回全国高等学校サッカー選手権大会1回戦伏見工業戦に一年生ながら先発出場し先制得点を上げ勝利に貢献した。そして、3年時の第83回全国高等学校サッカー選手権大会においては、惜しくも準々決勝で国見高校に2-3で敗退したものの、初戦から準々決勝まで毎試合の4試合連続ゴールを上げ大会得点王となる活躍を見せた。ちなみにその年の、全国高校総体、東北プリンスリーグでも得点王となっている。

大学卒業後は大学院に進学しコーチとなっていたが現役復帰。 2010年にジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズに入団。1年限りで退団。現役引退を表明している。 2014年度より、慶應義塾体育会ソッカー部にてコーチを務めている。
-----引用 ここまで-----

 得点王をとりまくったものの、プロでは活躍できず。厳しいですね。
 あと、「慶應義塾体育会ソッカー部」というのは誤植じゃなくてマジでこういう名前でびっくり。

-----引用 ここから-----
慶應義塾体育会ソッカー部 - Wikipedia

1921年、彼らと同好の士を糾合して「慶應ブルー・サッカー」を創立。後に「慶應アソシエーション・フットボール倶楽部」と改称した[6]。しかし、ラグビー部が、既に"蹴球部"と名乗っており、またアソシエーション・フットボールという名称もラグビー部から紛らわしいと横槍が入ったこともあって、当時はあまり知られていないソッカー(サッカー)を使うことで、1927年大学公認の体育会の部となり「慶應義塾体育会ソッカー部」に名称変更された[7]。この年が正式なクラブ創立年となる。なお、"サッカー"ではなく"ソッカー"なのは、「発音は"ソッカー"に近い」という初代主将・浜田諭吉の説によるもの。
-----引用 ここまで-----

 妙なこだわりがありますが、たぶん伝統を大事にしているということなんでしょう。