■2021/02/21 意味ある?意味ない?リフティングが下手でも代表の中心に
■2021/02/21 リフティングができない子は除外…才能を潰す日本のコーチ
■2021/07/18 コーチに叱られる指導は日本だけ?アルゼンチン選手が語る
■2021/02/21 意味ある?意味ない?リフティングが下手でも代表の中心に
<サッカーにリフティングはいらない? 下手でも日本代表になった選手の考え>(スポルティーバ 公式サイト web Sportiva)というタイトルを見た時点で思ったのは、「リフティングがうまい方がサッカーでは有利だけど、飽くまでリフティングはサッカーの一部でしかないのでできなくても大丈夫」という穏当なものでした。
現代サッカーではGKでも足元の技術が求められるためにリフティングのうまさは役立つところがあるでしょう。しかし、リフティングのうまさが求められるプレーは90分間の中では短く、ポジションによっても差があります。正直言ってリフティングがうまくても他が駄目なら使い物になりません。
「有機栽培野菜はいい野菜」という誤解みたいなものですかね。そもそも「有機栽培がいい」という考えそのものが誤解ですが、有機栽培は野菜の品質を決める一つの要素でしかありません。様々な条件によって決まってくるために、有機栽培かどうかというのは、ほとんど影響しないことがわかっています。
あと、ビジネスにおける英語みたいなのもそうでしょうか。英語がうまい方がそりゃ良いですが、他が駄目なら困ります。一時期ネットでは英語社内公用語化を叩いていたものの、実際の導入企業は「英語だけできれば良い」という考えではありませんでした。
で、先の記事<サッカーにリフティングはいらない? 下手でも日本代表になった選手の考え>ですが、てっきりちょっと日本代表に選ばれたことあるよ…くらいの選手だと思ったら福西崇史でびっくり。ジュビロ磐田の黄金期の中心メンバーであり、日本代表でも64試合7ゴールの戦績の守備的なMFでした。記事でも、2002年の日韓W杯、06年のドイツW杯に出場し、4度のJリーグベストイレブンという書き方です。
守備的なポジションということで、やはりうまさはそれほど求められないところ。福西崇史は高い身体能力が売りというタイプでしたね。ただ、ジュビロ磐田でも当初はFWだったそうなので、それまでのサッカー人生ではリフティング技術を求められることがあったのかもしれません。
■2021/02/21 リフティングができない子は除外…才能を潰す日本のコーチ
<「リフティングが苦手」で、子どもの頃は「100回もできなかった」と話す。
「小学生の頃から、チームのなかで(リフティングは)上手なほうではなかったですね。だからイベントなどで『リフティングをやってください』と言われると、めちゃくちゃ緊張します。リフティングで、足をくるくる回したりするサッカー選手は多いけど、僕はできないので(笑)」
福西氏がサッカーを始めたのは、小学4年生の時。いまどきの子に比べると、はるかに遅いスタートである>
日本の少年サッカーには「リフティングが○回できないと、練習に参加させない」といった決まりがあるチームも少なくないとのこと。福西も「僕もそのような場面に遭遇したことがあります」としていました。福西さんの息子がまさにそういうチームだったので、いっしょに練習したそうです。リフティングにこだわってしまうことで、サッカーの才能発揮を阻害している感じがあります。
<リフティングが上手だからといって、ピッチ上のプレーに直結するかというと、そうとも限らない。サッカーには足でのボールコントロール以外にも、蹴ったり、走ったり、ヘディングしたり、相手とぶつかったりと、たくさんのすべきことがある。
「リフティングはシュート練習、パス練習と同じで、サッカーの練習のひとつですよね。リフティングができなくても、ほかの部分に特長のある選手はいます。指導者目線で言うと、『リフティングができないから、この選手はダメだ』というジャッジはしないほうがいいですよね。リフティングだけが、サッカーの上手い、下手をはかる基準ではないですから」>
あと、足先でボールを細かく突く、福西崇史が名付けた「ちょんちょんリフティング」が多い…と言われて、ハッとしました。これは本当にサッカーの試合で使われることは極めてまれ。なので、福西崇史は、インサイドでボールを突く「とんとんリフティング」もやるように勧めているそうです。
■2021/07/18 コーチに叱られる指導は日本だけ?アルゼンチン選手が語る
日本のサッカー指導に関する話があったのでここに追記。ただ、その話はちょっとでしたし、当初の中心であるリフティングは一切関係なし。もともとは、<アルゼンチン代表が28年ぶりにタイトル獲得。メッシ34歳にして、ついに初栄冠!>(林壮一 | ノンフィクションライター 2021/7/12(月) 0:01)という話でした。
これは、埼玉県のジュニアユース、トリコロールFCのコーチとして指揮を執っている、元アルゼンチンユース代表&ビーチサッカーアルゼンチン代表であるセルヒオ・エスクデロさんに、コパアメリカでVを飾った祖国代表チームについて聞いたというものなので、大半はそういった内容です。ただ、最後でコーチに関する話が少し出てきました。
<サッカーって楽しいものです。でも、日本人は小学生の頃から監督やコーチにガミガミ言われ、怒鳴られ、時には暴力まで振るわれている子がいっぱいいます。
メッシもネイマールも、今回のコパアメリカに出場した選手たちも、そんな妙な指導は受けていません。日本で、誰もが心底サッカーを好きになれる指導をしなければと、改めて感じました>
https://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20210712-00247465/
「体罰」に関して言えば、サッカーは野球より少ないという調査結果を見たことがあります。ただ、少なかったとしても、「ある」という時点で海外から見ると異常なんでしょうね。セルヒオ・エスクデロさんから見ると、スポーツ以外でも日本人が多用する「叱る」すら異常に見える模様。実際、研究結果でも叱る教育は効果が高いわけではないとわかっているので、この理解で良いと思われます。
2026年8月29日土曜日
2026年8月26日水曜日
読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也
■2021/10/09 読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也
■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため
■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった
■2021/10/09 読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也
菊原志郎のWikipediaを見ていたら、<読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の下部組織で育ち、戸塚哲也から繋がり、菊原以後山口貴之、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜である>と書かれていました。ただ、これ、大成しなかった早熟の天才の系譜、失敗の系譜のような感じですね。
私には、「早熟の天才日本人選手は大成せずに失敗することが多い」というイメージがあったのですが、菊原志郎・財前宣之・山口貴之というのがまさにその代表例。そういや、読売ばっかりじゃん!とこれ見て気づきました。Jリーグ開幕後の失敗例として思い浮かぶ森本貴幸も、なぜか同じヴェルディという不思議な共通点があります。森本貴幸の場合は早くに海外に行ったので、日本やヴェルディの責任は薄いですけど…。
彼がきっかけだったので、まず、2番目の菊原志郎から始めましょうか。Wikipediaでは、以下のように書いていました。出た試合が少なすぎて、私もプレーの記憶がありません。Jリーグは15試合で、日本代表は5試合でした。
<1986年2月1日の日本サッカーリーグ第15節フジタ工業戦において16歳7ヶ月の若さでデビューを果たした。これは当時の最年少出場記録であった。その後レギュラーの座を掴み、ラモス瑠偉らと共に中盤を支え読売クラブの黄金時代を築き上げた。またこの活躍から「日本サッカーの未来を背負う男」とも呼ばれ[2]、1990年には日本代表に選出された。
読売時代は天才ドリブラー、テクニシャン等数々の異名をとったが、Jリーグ開幕前後は、層の厚いチームにあったため出場機会に恵まれず、日本代表にも招集されることはなかった>
■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため
私が見始めたJリーグでは既に30歳を超えたベテランで、なおかつ既にハゲてきていた(と思ったのですが写真見るとはげておらず記憶違いかも)ので全く「少年」というイメージはないのですが、最初の戸塚哲也が唯一成功例な感じ。Wikipediaによると、代表試合数は18試合と少ないものの、読売を優先して辞退していたという経緯があり、本来ならもっとキャップ数が多かったはず。「読売でレギュラーを取るのは日本代表になるより難しい」を体現していた人でした。
<読売クラブの下部組織で育ち、天才少年と呼ばれた>
<1979年4月25日の東洋工業戦において、18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾った[2]。これは当時の最年少出場記録でもあった。(中略)
1983年に監督に就任したルディ・グーテンドルフによってMFからFWへコンバート[3]。ポジションの変更は当時読売クラブでエースFWであったラモスとの単純な入れ替えであったと評す向きもあるが、翌1984年に14得点を上げリーグ得点王に輝いている。
日本リーグ末期からJリーグ黎明期の読売クラブ/ヴェルディ川崎の黄金期を支えるエースストライカーであった。キープ力に定評があり[3]、当時日本屈指のキープ力と称され、その懐深いドリブルは相手DFから球を奪われることは殆どなかった。また、JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)などでも活躍した>
<1980年、19歳の時に日本代表に初選出。(中略)
その後も代表へ度々選出され、背番号10番を背負う事もあったが、1983年に個人的な理由から数年間代表入りを辞退していた[3]。当時戸塚はラモス瑠偉、ジャイロ・マトス、ジョージ与那城らブラジル人選手とパス交換を交わす読売クラブでのプレイに魅力を感じており、代表合宿に参加するとクラブに戻った際にブラジル人トリオとの息が合わない事が多かった。そのためアマチュアである代表チームよりも、お金にもなるクラブに専念したかったのである。しかし1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した>
■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった
私が一番楽しみにしていたのは、山口貴之。彼の場合はJリーグでもかなり出ていたものの、不思議とあんまり記憶に残っていません。J1は153試合。京都のイメージが強かったものの、Wikipediaによると、いろんなチームを転々としています。各年代の代表には選ばれていますが、フル代表に呼ばれるほどの活躍はできませんでした。
<1992年、ヴェルディ川崎トップチームに昇格する。
戸塚哲也、菊原志郎から繋がり、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。司令塔タイプとしてユース時代から注目され、「ラモス2世」の呼び声もあった。その後数多くのクラブに移籍、また日本代表選手として、U-16、U-19、U-23アトランタオリンピック代表などにも選出された>
最後の財前宣之が一番覚えている選手で、仙台の中心選手として長く試合に出ていました。ただ、Wikipediaによると、J1は37試合のみで、J2が222試合というのは記憶と違います。だいぶ見た気がしたんですけど、J2で見たのかな…?。
ジュニアユースやユース時代からよく名前が出ていて楽しみにしていた選手です。4人の中では一番好きですね。ただ、こちらもユース時代の評価からはかなり物足りない結果に。
仙台では「天才だから特別扱い」ということはなく、運動量がむしろ多く、よく動いていました。ただ、代表レベルには物足りないプレーの質で、代表にも呼ばれず。ユース年代が最後の代表となりました。度重なる怪我に泣かされた面もありますね。
<中田英寿も認めた才能の持ち主[2](運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出された。>
■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため
■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった
■2021/10/09 読売天才少年のその後は悲惨?菊原志郎・財前宣之・山口貴之・戸塚哲也
菊原志郎のWikipediaを見ていたら、<読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の下部組織で育ち、戸塚哲也から繋がり、菊原以後山口貴之、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜である>と書かれていました。ただ、これ、大成しなかった早熟の天才の系譜、失敗の系譜のような感じですね。
私には、「早熟の天才日本人選手は大成せずに失敗することが多い」というイメージがあったのですが、菊原志郎・財前宣之・山口貴之というのがまさにその代表例。そういや、読売ばっかりじゃん!とこれ見て気づきました。Jリーグ開幕後の失敗例として思い浮かぶ森本貴幸も、なぜか同じヴェルディという不思議な共通点があります。森本貴幸の場合は早くに海外に行ったので、日本やヴェルディの責任は薄いですけど…。
彼がきっかけだったので、まず、2番目の菊原志郎から始めましょうか。Wikipediaでは、以下のように書いていました。出た試合が少なすぎて、私もプレーの記憶がありません。Jリーグは15試合で、日本代表は5試合でした。
<1986年2月1日の日本サッカーリーグ第15節フジタ工業戦において16歳7ヶ月の若さでデビューを果たした。これは当時の最年少出場記録であった。その後レギュラーの座を掴み、ラモス瑠偉らと共に中盤を支え読売クラブの黄金時代を築き上げた。またこの活躍から「日本サッカーの未来を背負う男」とも呼ばれ[2]、1990年には日本代表に選出された。
読売時代は天才ドリブラー、テクニシャン等数々の異名をとったが、Jリーグ開幕前後は、層の厚いチームにあったため出場機会に恵まれず、日本代表にも招集されることはなかった>
■2021/10/09 戸塚哲也の代表試合数が少ないのは、日本代表を辞退したため
私が見始めたJリーグでは既に30歳を超えたベテランで、なおかつ既にハゲてきていた(と思ったのですが写真見るとはげておらず記憶違いかも)ので全く「少年」というイメージはないのですが、最初の戸塚哲也が唯一成功例な感じ。Wikipediaによると、代表試合数は18試合と少ないものの、読売を優先して辞退していたという経緯があり、本来ならもっとキャップ数が多かったはず。「読売でレギュラーを取るのは日本代表になるより難しい」を体現していた人でした。
<読売クラブの下部組織で育ち、天才少年と呼ばれた>
<1979年4月25日の東洋工業戦において、18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾った[2]。これは当時の最年少出場記録でもあった。(中略)
1983年に監督に就任したルディ・グーテンドルフによってMFからFWへコンバート[3]。ポジションの変更は当時読売クラブでエースFWであったラモスとの単純な入れ替えであったと評す向きもあるが、翌1984年に14得点を上げリーグ得点王に輝いている。
日本リーグ末期からJリーグ黎明期の読売クラブ/ヴェルディ川崎の黄金期を支えるエースストライカーであった。キープ力に定評があり[3]、当時日本屈指のキープ力と称され、その懐深いドリブルは相手DFから球を奪われることは殆どなかった。また、JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)などでも活躍した>
<1980年、19歳の時に日本代表に初選出。(中略)
その後も代表へ度々選出され、背番号10番を背負う事もあったが、1983年に個人的な理由から数年間代表入りを辞退していた[3]。当時戸塚はラモス瑠偉、ジャイロ・マトス、ジョージ与那城らブラジル人選手とパス交換を交わす読売クラブでのプレイに魅力を感じており、代表合宿に参加するとクラブに戻った際にブラジル人トリオとの息が合わない事が多かった。そのためアマチュアである代表チームよりも、お金にもなるクラブに専念したかったのである。しかし1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した>
■2021/10/09 中田英寿も「財前宣之に認められたい」と言うほどの別格だった
私が一番楽しみにしていたのは、山口貴之。彼の場合はJリーグでもかなり出ていたものの、不思議とあんまり記憶に残っていません。J1は153試合。京都のイメージが強かったものの、Wikipediaによると、いろんなチームを転々としています。各年代の代表には選ばれていますが、フル代表に呼ばれるほどの活躍はできませんでした。
<1992年、ヴェルディ川崎トップチームに昇格する。
戸塚哲也、菊原志郎から繋がり、財前宣之へと続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。司令塔タイプとしてユース時代から注目され、「ラモス2世」の呼び声もあった。その後数多くのクラブに移籍、また日本代表選手として、U-16、U-19、U-23アトランタオリンピック代表などにも選出された>
最後の財前宣之が一番覚えている選手で、仙台の中心選手として長く試合に出ていました。ただ、Wikipediaによると、J1は37試合のみで、J2が222試合というのは記憶と違います。だいぶ見た気がしたんですけど、J2で見たのかな…?。
ジュニアユースやユース時代からよく名前が出ていて楽しみにしていた選手です。4人の中では一番好きですね。ただ、こちらもユース時代の評価からはかなり物足りない結果に。
仙台では「天才だから特別扱い」ということはなく、運動量がむしろ多く、よく動いていました。ただ、代表レベルには物足りないプレーの質で、代表にも呼ばれず。ユース年代が最後の代表となりました。度重なる怪我に泣かされた面もありますね。
<中田英寿も認めた才能の持ち主[2](運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出された。>
2026年8月25日火曜日
サッカーの女子監督 日本ではミラグロス・マルティネス監督
■2021/02/28 サッカーの女子監督 日本ではミラグロス・マルティネス監督
■2017/02/22 男子プロ初のリーグ優勝女性監督チャン・イェンティン 香港のイースタンを率いる
■2017/03/18 世界の女性監督 パトリシア・パニーコ、コリンヌ・ディアクル
■2017/05/15 チャン・ユエンティン氏、監督就任の経緯
■2017/05/15 科学的で研究の裏付けがある指導法のチャン・ユエンティン監督
■2017/05/15 イースタンSCと川崎フロンターレの感動のエピソード
■2017/06/24 ドイツ一部で初の女性スカウトと初の女性主審 ヘレナ・コスタ元仏2部監督とビビアナ・シュタインハウス氏
■2021/02/28 サッカーの女子監督 日本ではミラグロス・マルティネス監督
JFL・Jリーグを含めて、「日本サッカー史上初めて」という言い方がされていますが、日本初の外国人女性監督は、鈴鹿アンリミテッドのスペイン人女性のミラグロス・マルティネス・ドミンゲス監督。招聘当時まだ33歳であり、これまではスペイン国内で指導してきたとのことで、実績があったわけではなさそうなんですけどね。
これを紹介した記事JFLで史上初の外国人女性監督が誕生…世界で実績を残してきた女性たち | サッカーキング(2019/3/16)では、他の女性監督も紹介していました。うちでもともと書いていたチャン・ユエンティン監督以外の人を短めにまとめて引用します。
コリーヌ・ディアクル 国籍:フランス
<現役時代にフランス女子代表DFとして121試合に出場し、キャプテンまで務めたプレーヤー。(中略)2014年6月にリーグ・ドゥ(フランス2部)のクレルモン・フットの監督に就任。欧州のプロサッカーリーグで初めて、男子のクラブを率いて公式戦を戦った女性になった。すると就任初年度はリーグ12位、2年目は7位という好成績を残し、『フランス・フットボール』誌が選出する2015年のリーグ・ドゥ最優秀監督にも選出された。この活躍が高く評価され、2017年8月からはフランスの女子代表チームを指揮>
エレナ・コスタ 国籍:ポルトガル
<ベンフィカの男子ユースチーム、カタール女子代表、イラン女子代表などで指揮官を務めたあと、2014年5月にクレルモン・フットの監督に就任。欧州の男子プロサッカー界で初めて監督に任命された女性とあって、当時は世界中から大きな注目を集めた。しかし、(引用者注:シーズン開幕の)わずか1カ月でクラブとの契約を解除。(中略)ブンデスリーガ初の女性スカウトとしてフランクフルトに入団>
イムケ・ビュッベンホースト 国籍:ドイツ
<ドイツサッカー史上初めて、男子チームを率いる女性監督がイムケ・ビュッベンホーストだ。U-19世代の欧州王者に輝いたこともある彼女は、ドイツ5部リーグに在籍するBVクロッペンブルクの女子チームで選手兼コーチとして活躍していた。だが、男子チームの監督が他クラブへ“移籍”したため、昨年12月から後任を務めることに>
パトリツィア・パニーコ 国籍:イタリア
<約20年間にわたってイタリア女子代表でもプレー。同国女子代表の最多出場記録と最多得点記録を保持する、(中略)2016年の現役引退後、イタリアU-16男子代表のアシスタントコーチに就任。翌年には監督に昇格し、イタリア男子サッカー界初の女性指揮官となった。昨年8月からは同U-15男子代表の監督を務めており、“カルチョ”の復権に向けて日々尽力している>
■2017/02/22 男子プロ初のリーグ優勝女性監督チャン・イェンティン 香港のイースタンを率いる
そういえば、女性監督とかコーチとかって、全然聞いたことなかったですね。
残念なことに、サッカーにおいては、ときどき性別的な役割などについて時代錯誤な主張をする人がいます。指導者の性別の偏りもそういったものなのかもしれません。
ACL初の女性監督、名将フェリポンに挑む。3月に川崎Fと対戦 フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年02月21日
記事そのものは、2017年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)で、大会史上初の女性監督が誕生するというもの。
ただ、香港のイースタンを率いるチャン・イェンティン監督は、それ以前に勲章を持っています。
「男子プロサッカーチームをトップリーグで優勝に導いた初めての女性監督」としてギネス世界記録です。
記事によれば、2008年から13年にかけて女子香港代表選手だったチャン監督は、2015年12月にイースタンの監督に就任。そして、2016年4月には、チームを香港プレミアリーグ優勝に導いたとされていました。
就任から優勝が短いですね。途中交代での就任でしょうか?
ここらへんの経緯を知りたかったものの、全然情報なし。
あと、これを調べていて「イースタン」というシンプルな名前は現地だと「東方」という表記っぽいことがわかりました。これまたシンプルです。
ただ、「イースタンSC」の表記もあります。「SC」はサッカークラブだと思ったら、「Eastern Sports Club」みたいです。
そして、こちらは漢字表記だと、「東方體育會」みたいです。えらく難しく見えますが、たぶん日本では旧字とされているものというだけで、現代の日本語表記だと「東方体育会」。結局、シンプルでした。
■2017/03/18 世界の女性監督 パトリシア・パニーコ、コリンヌ・ディアクル
本来イタリアU-16代表を指揮するダニエレ・ツォラート監督がU-19代表の欧州選手権予選に帯同するための代理という形ですが、イタリアU-16代表対ドイツU-16代表の親善試合で、パトリシア・パニーコ氏がイタリアの監督としてベンチに座るそうです。
イタリアで世代別を含めて男子の代表チームを女性が率いるのは初めて。ただ、それだけでなく、 ヨーロッパ強豪国の男子代表チーム初の女性監督のようです。
彼女は、1975年生まれの42歳。元選手であり、イタリア女子代表として204試合に出場して110ゴールを挙げ、同国の女子代表最多得点記録を保持、2015年にはイタリアサッカー殿堂入りも果たしたレジェンドでした。
女性がイタリア男子U-16代表監督に! ドイツとの親善試合でベンチ入りへ フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年03月17
記事では他に前述のチャン・ユエンティン監督の名前がありました。さらに、フランス2部のクレルモン・フット63でコリンヌ・ディアクル監督が辣腕をふるっており、女性指導者が男子トップレベルの選手を指導するケースは増えてきている、ともありました。
ビジネスや政治や研究などがそうであるように、女性が活躍できないということはありませんから、今後こういったことは増えていくでしょう。
国際的な学力テストの成績や大学進学率を見ると、 女性が上回っていることが一般的であり、むしろ女性の方が能力が高いかもしれません。
ただ、前回書かなかったネガティブなことも書いておきます。同じ功績、あるいは、同じ失敗であったとしても、それが男性か女性かによって、大きく評価が変わることが多くの研究からわかっています。
全く 同じ内容であっても、女性の方が男性より低い評価しかもらえない上に、問題があった場合は激しく叩かれ厳しい罰を与えられるのです。
スポーツの世界は特に遅れていますので、女性監督らの未来はかなりの困難が予想されます。
■2017/05/15 チャン・ユエンティン氏、監督就任の経緯
チャン・ユエンティン監督のインタビュー記事がありました。
ACL初の女性監督が語る指導者論。28歳の新米監督が乗り越えた困難、そして川崎への感謝 フットボールチャンネル | スポーツ | 2017年05月10日(取材・文:舩木渉)
「それまで監督をした経験はなかった」というチャン・ユエンティン監督。2010年頃から2013年まで別のチームのデータアナリストや下部組織のコーチを務め、2015年夏にアシスタントコーチになったばかりの新米指導者でした。
そんな彼女が2015年12月にチームの監督になったのは、前任者であるた楊正光(ヨン・チンクォン)前監督が中国2部の梅州客家に引き抜かれたため。元々はアシスタントコーチだったチャン監督は、前任者と梁守志(ピーター・リョン)GMの強い推薦によって、シーズン途中からイースタンSCを率いることになりました。
女性への評価が厳しくなることが研究でわかっていると以前書いたように、当初は懐疑的に見られていたようです、瞬く間にチームをまとめ上げて優勝。イースタンSCはなんと21年ぶりのリーグ優勝だったというから立派です。
ただ、昨年のシーズンオフに、長年クラブに投資してきたオーナーが支援撤退を表明。昨年8月に新しいスポンサーが見つかって、リーグ戦やACL出場辞退は免れたものの、あまり良い状態ではなかったようです。
■2017/05/15 科学的で研究の裏付けがある指導法のチャン・ユエンティン監督
チャン監督は女性という点が注目されがちですが、若すぎることもまた非常に難しいことになっています。"自分よりも年上の選手たちが多いチームを団結させるには相当な困難"があるというのが、一般的なはずです。
選手との信頼構築において彼女が最も重要視していたのは、正攻法である綿密なコミュニケーションでした。元々データアナリストだった経験を生かし、数字に基づいて選手個人と対話を重ねることで互いの信頼を深めていったとのこと。科学的ですね。
実際、元香港女子代表選手でありながら、香港中文大学の大学院を修了という異色の経歴。専攻は運動医学や健康科学分野で、「データによる分析や知識は選手たちを強くします」と語る通り、サッカーにおけるスポーツ科学の重要性を理解している人物なんだそうです。
「データ分析は自分のことを理解し、相手のことも理解することができます。データによる証明は選手たちに自信を与えることにもつながります。チームに問題があればそれを伝え、選手たちはその問題を理解する。そうすれば解決法も見つかり、チームとして成長することができるんです」
また、以下のようなことも言っていました。
「私と選手たちは互いをリスペクトしています。素晴らしい経験やフットボールに関する優れた知見を持っている選手もいますし、私が彼らの話に耳を傾けて知識を得ることもあります。監督は固定観念に縛られてはいけないと思っています。互いから学ばなければならない。そうすれば彼らも監督という仕事を理解して常に敬意を払ってくれ、私の決断についてきてくれます」
若さや女性出ることは舐められる要因になるものの、部下である選手たちを理解しようという行動を起こしやすくなるのかもしれません。ビジネスや子供の教育の場合、このように相手を理解するということが重要だとわかっています。サッカーでも同様でしょう。
■2017/05/15 イースタンSCと川崎フロンターレの感動のエピソード
なお、香港は男女平等が進んでいる特殊な国だということを指摘していました。
「(女性のコーチが出てくるかは)その土地の文化しだいだと思います。香港では男女平等が進んでいます。それによって女性でも監督になれるチャンスがありました」
あと、ACLグループステージ第2節、川崎FがアウェイでイースタンSCと対戦した試合、チケットは地元ファンによって即完売となり、当日券を求めて渡航した多くのフロンターレサポーターのために、チャン監督が、クラブから余っているチケットを自腹で買い取ってフロンターレサポーターに配ったという噂について。
これは自費というのは間違いであるものの、チケット配布は本当だそうです。すごい話ですね。
「私は一銭も払っていませんよ(笑)。チケットをクラブから手に入れてきただけです。クラブがアウェイファンのためのスペアのチケットをいくらか持っていて、それを配布すると決めたということです。日本のファンの皆さんは、遠いところから飛行機で、相当なお金をかけて来てくださいました。そういった方々がスタジアムの中で試合を楽しむべきだと思いましたし、実際に観戦できたと聞いて私も非常に嬉しく思います」
前述のエピソードが広まっていたからかフロンターレサポーターは、9日に行われたイースタンSCとの試合前に感謝のメッセージが書かれた横断幕を掲げたとのこと。良い話でした。
■2017/06/24 ドイツ一部で初の女性スカウトと初の女性主審 ヘレナ・コスタ元仏2部監督とビビアナ・シュタインハウス氏
今年5月、2ブンデスリーガ1部の審判員として、リーグ初の女性主審となるビビアナ・シュタインハウスさんが登録されたことが発表されていました。
そして、今度はブンデスリーガのクラブでは初の女性スカウトが誕生というニュース。
1部のフランクフルトのスカウトに任命されたのは、ヘレナ・コスタさん。ポルトガル出身で、監督経験があります。
2014年にフランス2部クレルモンの監督に就任し、フランスの男子プロクラブで初、また欧州主要リーグの2部以上のクラブで初の女性監督となっていました。ただ、その際はクラブとの衝突から、シーズン開幕を待たずして退任になっています。
過去にはベンフィカの下部組織での指導や、女子のカタール代表、イラン代表の監督を務めた経験もあります。国際経験も豊富なようです。
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